釣り、ペット、短編小説、雑記、紙誌掲載原稿
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♪海は広いな~ 大きいな~
月が昇るし 日が沈む~
海は大なみ~ 青いなみ~
ゆれてどこまで つづくやら~
海にお船を 浮かばして~
行ってみたいな よその国~♪
(「うみ」作詞:林柳波 作曲:井上武士)
♪我は海の子 白波の~
騒ぐ磯辺の 松原に~
煙たなびく 苫屋こそ~
我が懐かしき住処なれ~♪
(「われは海の子」作詞:宮原晃一郎 作曲:不詳)
♪松原遠く~ 消ゆるところ~
白帆の影は浮ぶ~
干網浜に高くして~
鴎は低く波に飛ぶ~
見よ昼の海~ 見よ昼の海~♪
(「海」作詞作曲:不詳)
ほとんどの日本人は心の原風景として、「海」と言えば「白砂青松」あるいは「青い海、白い雲、緑の松原、白い砂浜、打ち寄せる波、磯の香り、囁く潮騒、頬を撫でる潮風」などを思い浮かべるだろう。
私は釣り好きで、愛知県知多半島の海辺によく出掛けるのだが、釣り場で知り合った地元のご隠居さんに、「なぁ、おみゃーさん。せゃーきん、海で遊んどる子どもンたぁが全然おれせんの、気付いとりゃーした?(標準語訳:ねぇ、君。最近、海で遊んでいる子どもたちが全然いない事に、気付いていたかね?)」と、問いかけられた。周囲を見回すと、確かに中高年のオヤジばかりで、海辺で遊んでいる子どもがいない。潮干狩り、海水浴、釣りと、海辺は子どもたちの格好の遊び場だったはずだ。はて、こうなると「月が昇り、日が沈む海」、「松原、砂浜、磯の香」を実際に体験している子どもは、どれだけいるのだろう? 昨年の産経新聞の調査では、日の出や日の入りを見た事のない小中学生が過半数、という結果が出ている。都市部の海岸はコンクリートで固められた護岸が続き、地方の海岸でも消波ブロックが積まれている。見渡してみれば、煙たなびかせているのは苫屋ではなく、紅白に塗られた工場や発電所の煙突だ。海岸沿いの道路や公園も松ではなく、フェニックスなどの植栽が施された、ハワイかアメリカ西海岸風に造られ、横文字カタカナで名付けられた通りが多くなっている。「海辺の保養地」と言えば「松に砂浜」のイメージだが、「マリンリゾート」となると「ヤシに白い大理石」となる。どちらが日本の気候風土にマッチしているかは言うまでもないが、観光開発の主流は洋風。
ある海辺のカフェのマスターが、「観光開発の企画を担当している世代はウェストコーストに憧れた世代。開発や予算を承認する議会の議員さんの多くはハワイに憧れた世代。地中海ブームもありましたし、どうしたって洋風の造り、横文字の名称になりますね。ウチもご多分に漏れず……」と話してくれた。苦笑混じりに、「羽衣の松がフェアリーケープのパインツリーとか、お宮の松がカンチー&ミーヤのグッバイプレース、なんて呼ばれたらイヤだねェ」と冗談を口にしたら、「なんですか、それ?」と聞き返されてしまった。三十代前半と思しきマスターは、三保の松原の「羽衣伝説」も、熱海の海岸散歩する貫一・お宮(「金色夜叉」尾崎紅葉)もご存じなかった。天女が月の舞いを見せなくなったのも、むべなるかな。貫一は別の意味の涙で、110年目の2007年1月17日の月を曇らせてしまいそうだ。
このように、日本人の海に関する原風景は、冒頭に記した童謡・唱歌によって、イメージが刷り込まれているだけになりつつある。あまりに海辺の景色が変わりすぎてしまうと、これらの童謡・唱歌も、いずれは「村の鍛冶屋」のように、時代にそぐわない曲として音楽の教科書から消えてしまうかもしれない。
とはいえ、国土保全、防災、観光開発による地域振興は欠かせないし、時代によって生活様式も嗜好も変わるのだから、ノスタルジックな思いに浸ってボヤいていても仕方がない。私たちが時代に合わせて、海の美しさや魅力を知り、感じ取っていけばよいのだ。仕事に追われて休日くらいは家でユックリしたい気持ちもわかるが、塾通いで忙しく、遊びはもっぱらゲーム、という子どもさんと一緒に海辺に出掛け、 "何もせず、ただボンヤリと海を眺めて過ごす贅沢な時間" を味わってみていただきたい。できれば童謡・唱歌を口ずさみながら。それでは物足りないという、忙しいのが好きな現代っ子ファミリーには、釣りもおすすめだ。コンクリート護岸であろうが、煙突やクレーンがひしめき合って立っていようが、海と空は神々しいまでに美しく、潮風は清々しい。そして、都市部の海にも魚たちは逞しく生きている。ハゼ、カレイ、アナゴ、スズキ、クロダイは東京湾、伊勢湾、大阪湾奥部の大都市圏の岸壁からも釣れるし、車や電車で一時間ほど走れば、アオリイカ、ヒラメ、マゴチといった高級魚だって陸から釣れる。思った以上に、我らが日本の海は豊穣なのだ。
-「波となぎさ」'06年6月30日発刊 168号 掲載稿より抜粋・加筆-
月が昇るし 日が沈む~
海は大なみ~ 青いなみ~
ゆれてどこまで つづくやら~
海にお船を 浮かばして~
行ってみたいな よその国~♪
(「うみ」作詞:林柳波 作曲:井上武士)
♪我は海の子 白波の~
騒ぐ磯辺の 松原に~
煙たなびく 苫屋こそ~
我が懐かしき住処なれ~♪
(「われは海の子」作詞:宮原晃一郎 作曲:不詳)
♪松原遠く~ 消ゆるところ~
白帆の影は浮ぶ~
干網浜に高くして~
鴎は低く波に飛ぶ~
見よ昼の海~ 見よ昼の海~♪
(「海」作詞作曲:不詳)
ほとんどの日本人は心の原風景として、「海」と言えば「白砂青松」あるいは「青い海、白い雲、緑の松原、白い砂浜、打ち寄せる波、磯の香り、囁く潮騒、頬を撫でる潮風」などを思い浮かべるだろう。
私は釣り好きで、愛知県知多半島の海辺によく出掛けるのだが、釣り場で知り合った地元のご隠居さんに、「なぁ、おみゃーさん。せゃーきん、海で遊んどる子どもンたぁが全然おれせんの、気付いとりゃーした?(標準語訳:ねぇ、君。最近、海で遊んでいる子どもたちが全然いない事に、気付いていたかね?)」と、問いかけられた。周囲を見回すと、確かに中高年のオヤジばかりで、海辺で遊んでいる子どもがいない。潮干狩り、海水浴、釣りと、海辺は子どもたちの格好の遊び場だったはずだ。はて、こうなると「月が昇り、日が沈む海」、「松原、砂浜、磯の香」を実際に体験している子どもは、どれだけいるのだろう? 昨年の産経新聞の調査では、日の出や日の入りを見た事のない小中学生が過半数、という結果が出ている。都市部の海岸はコンクリートで固められた護岸が続き、地方の海岸でも消波ブロックが積まれている。見渡してみれば、煙たなびかせているのは苫屋ではなく、紅白に塗られた工場や発電所の煙突だ。海岸沿いの道路や公園も松ではなく、フェニックスなどの植栽が施された、ハワイかアメリカ西海岸風に造られ、横文字カタカナで名付けられた通りが多くなっている。「海辺の保養地」と言えば「松に砂浜」のイメージだが、「マリンリゾート」となると「ヤシに白い大理石」となる。どちらが日本の気候風土にマッチしているかは言うまでもないが、観光開発の主流は洋風。
ある海辺のカフェのマスターが、「観光開発の企画を担当している世代はウェストコーストに憧れた世代。開発や予算を承認する議会の議員さんの多くはハワイに憧れた世代。地中海ブームもありましたし、どうしたって洋風の造り、横文字の名称になりますね。ウチもご多分に漏れず……」と話してくれた。苦笑混じりに、「羽衣の松がフェアリーケープのパインツリーとか、お宮の松がカンチー&ミーヤのグッバイプレース、なんて呼ばれたらイヤだねェ」と冗談を口にしたら、「なんですか、それ?」と聞き返されてしまった。三十代前半と思しきマスターは、三保の松原の「羽衣伝説」も、熱海の海岸散歩する貫一・お宮(「金色夜叉」尾崎紅葉)もご存じなかった。天女が月の舞いを見せなくなったのも、むべなるかな。貫一は別の意味の涙で、110年目の2007年1月17日の月を曇らせてしまいそうだ。
このように、日本人の海に関する原風景は、冒頭に記した童謡・唱歌によって、イメージが刷り込まれているだけになりつつある。あまりに海辺の景色が変わりすぎてしまうと、これらの童謡・唱歌も、いずれは「村の鍛冶屋」のように、時代にそぐわない曲として音楽の教科書から消えてしまうかもしれない。
とはいえ、国土保全、防災、観光開発による地域振興は欠かせないし、時代によって生活様式も嗜好も変わるのだから、ノスタルジックな思いに浸ってボヤいていても仕方がない。私たちが時代に合わせて、海の美しさや魅力を知り、感じ取っていけばよいのだ。仕事に追われて休日くらいは家でユックリしたい気持ちもわかるが、塾通いで忙しく、遊びはもっぱらゲーム、という子どもさんと一緒に海辺に出掛け、 "何もせず、ただボンヤリと海を眺めて過ごす贅沢な時間" を味わってみていただきたい。できれば童謡・唱歌を口ずさみながら。それでは物足りないという、忙しいのが好きな現代っ子ファミリーには、釣りもおすすめだ。コンクリート護岸であろうが、煙突やクレーンがひしめき合って立っていようが、海と空は神々しいまでに美しく、潮風は清々しい。そして、都市部の海にも魚たちは逞しく生きている。ハゼ、カレイ、アナゴ、スズキ、クロダイは東京湾、伊勢湾、大阪湾奥部の大都市圏の岸壁からも釣れるし、車や電車で一時間ほど走れば、アオリイカ、ヒラメ、マゴチといった高級魚だって陸から釣れる。思った以上に、我らが日本の海は豊穣なのだ。
-「波となぎさ」'06年6月30日発刊 168号 掲載稿より抜粋・加筆-
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